悪女と聞くと皆さんはどういう人のことを思い浮かべますか?
恋愛に奔放な人?
お金が大好きな人?
誰が決めたかはわかりませんが、世の中には日本三大悪女なんていう言葉があるんです。
それは日本に限らず、世界にもあります。
その人たちは一体どんな人で、何をした人たちなのでしょうか?
今回は日本の悪女、世界の悪女についてご紹介します。
Contents
日本三大悪女とは?
日本三大悪女と言っても、正式にこの人がそうです!と決まっているわけではないので、それは違うだろう、と思う人もいるかもしれません。
しかし俗に言う三大悪女は以下の3人のことを言うことが多いようです。
- 北条政子
- 日野富子
- 淀殿
歴史の授業で聞いたことあるな、という人もいれば、名前も初めて聞いた、という人もいるのではないですか?
では3人はどのような人物だったか、悪女と呼ばれるのはなぜかを解説したいと思います。
日本三大悪女って誰?その理由や性格は?
では北条政子・日野富子・淀殿とはどのような人物なのでしょうか?
一人ずつご紹介したいと思います。
北条政子
北条政子ってどんな人?
この人の名前は聞いたことがある人が多いと思います。
北条政子は鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝の妻です。
政子と頼朝は当時では珍しい、恋愛結婚でした。
しかも当時頼朝は罪人として、伊豆に監禁されている身でした。
それを監視していたのが政子の父、北条時政です。
父が監視している罪人と恋に落ちるなんて、ドラマチックですね。
その後平家との戦いに勝利した頼朝とともに、鎌倉幕府を創設し、頼朝の手助けをします。
頼朝亡き後は尼となり、政子の実家の北条氏と幕府の実権を握り、幕政を動かしていきました。
日本三大悪女となった理由やエピソード
ここまで見ると、夫を堅実に支えた良い妻に見えますね。
北条政子が悪女と呼ばれるのは、以下のエピソードのためです。
嫉妬で浮気相手の屋敷を打ち壊す
政子が第二子を妊娠中、頼朝は亀の前という女性と浮気をしてしまいます。
それを知った政子は嫉妬から大激怒。
牧の方(父時政の後妻)の父親である牧宗親に命じて、亀の前がかくまわれていた伏見広綱の屋敷を打ち壊してしまったのです。
現在なら浮気は許されないことですが、当時は一夫多妻が当たり前で、位の高い男性なら妾を持つのは当然でした。
しかし政子はそれを許さなかったのです。
屋敷が壊されたことを知った源頼朝も黙っておらず、牧宗親の髻(ちょんまげのこと)切り落としてしまいます。
すると、今度は北条時政が怒って伊豆に引き上げて……。
最終的に政子は、亀の前をかくまっていた伏見広綱を流刑にしてしまいました。
そんな風に、政子の嫉妬から大変な大騒動になったのです。
そして、この政子の嫉妬により頼朝は側室を持つことができず、跡取りが少なかったため、直系の将軍が3代しか続かなかったとも言われています。
繰り返しますが、当時は一夫多妻が普通。
政子の嫉妬が巻き起こしたこの大事件はものすごくセンセーショナルで、悪女と言われる理由のひとつになったのは間違いなさそうです。
頼朝の弟を排除
頼朝が鎌倉を離れているとき、頼朝が死亡したというデマが流れました。
これを聞いた政子は気が気ではありません。
政子を気遣ってか、頼朝の弟である範頼は次のように言います。
「鎌倉には私がいますから、大丈夫ですよ。」
しかし政子はこの言葉を励ましとは受け取らず、範頼が次の将軍の座を狙っていると考えました。
政子は無事帰還した頼朝にこのことを告げます。
すると、当然頼朝は激怒。
頼朝は謀反の疑いで範頼を流罪にします。
その後範頼は流罪先で殺されてしまいました。
政治的な動きに関わっていたことも、政子が悪女と言われる所以のひとつなんですね。
実子を死に追いやった
頼朝の死後、2代将軍になったのは政子の実子の源頼家でした。
しかし頼家は女遊びや蹴鞠にばかりかまけて政治には無関心。
その上、政子の実子ではありながら、政子の実家の北条家ではなく、頼家の乳母の比企家を重視したのです。
これにより政子は比企家を討伐し、頼家へ出家を命じます。
こうして頼家は将軍の座を追われることになりました。
その後修善寺に幽閉された頼家は、北条氏の刺客に暗殺されてしまいます。
北条政子が悪女と呼ばれるのは、その嫉妬深さと猜疑心、そして実子よりも権力をとったというところに理由があるようです。
北条政子は本当に悪女だったのか?
三大悪女のひとりに挙げられる北条政子ですが、愛情深さを示すエピソードも残っているので紹介します。
①静御前をかばった
静御前といえば頼朝の宿敵義経の妾として有名ですが、頼朝軍に捕らわれたときも、彼女は義経への想いを隠しませんでした。
それに怒った頼朝が罰を与えようとしたとき、北条政子は彼女をかばったのです。
自らも周囲の反対を押し切って頼朝と結ばれた政子ですから、静御前の恋心が理解できたんですね。
②子どもを失い悲嘆に暮れていた
最後に残った実朝が暗殺されたとき、政子はすべての子を失ってしまったことを嘆き、川に身を投げようと思ったという言葉を残しています。
嫉妬深く、冷酷だったという評価が多いなか、こういった人間らしい逸話も残されています。
知れば知るほど興味深いですね。
日野富子
日野富子ってどんな人?
日野富子は室町幕府第8代将軍・足利義政の正室です。
あまり聞き馴染みのない人かもしれませんが、実はこの人は歴史上のある大事件の引き金を引いた人物とも言われているのです。
日本三大悪女となった理由やエピソード
日野富子はなぜ三大悪女のひとりに数えられるようになったのでしょう。
具体的なエピソードから、その理由を紐解いていきます。
側室や乳母を追放
富子は義政の正室になった4年後に第一子に恵まれましたが、この子は生まれたその日のうちに亡くなってしまいました。
そのとき富子は悲しみに暮れるどころか、義政の乳母の今参局が呪いをかけたせいで子どもが死んだと言い、彼女を琵琶湖沖島に流罪にしてしましました。
ひどい逆恨みですよね……。
また自分以外の女性にお世継ぎが生まれることを恐れてか、4人の側室も追放しています。
応仁の乱の間に金儲け
義政と富子の間には男の子が誕生しませんでした。
そのため義政は跡継ぎにするために、出家していた弟の足利義視を還俗させ、その後見に細川勝元を置きます。
しかしその後、富子が男の子(後の足利義尚)を出産するのです。
我が子を将軍にしたいと考えた富子は、義尚の後見に山名宗全を置きました。
けれど、足利義視だって一度後継者に指名されたのですから引くわけにはいきません。
この二人の跡目争いを巡った、細川勝元と山名宗全の戦いが応仁の乱へと発展してしまうのです。
この戦いは11年にも及び、100年間続く戦国時代のきっかけとなりました。
驚きなのは、この戦の間の富子の行動です。
なんと細川、山名の双方に戦費の貸し付けをして、莫大な利益を得ていたのです。
現在の価値で60億も儲けていたというのですから驚きですよね。
応仁の乱のきっかけとなった跡目争いそっちのけで、お金稼ぎをしていたわけですから、悪女と言われるのも納得してしまいます。
関所で集めた資金を着服
応仁の乱後も富子のお金への執着は変わりません。
富子は京都に設置されていた関所の通行料を着服し、私腹を肥やしていました。
このお金は本来なら内裏の修理費や諸祭礼の費用に充てられる予定でした。
となると、当然民衆は怒りますよね。
一揆が起こるのですが、富子はひるまずこれを弾圧。
それで終わりかと思えば、富子はまた関所を作って儲けるんです!
権力への執着
9代将軍となった足利義尚でしたが、25歳という若さで亡くなってしまいます。
実権をにぎり続けたかった富子は、足利義視と自分の妹の間に生まれた足利義種稙(よしたね)を将軍に擁立しました。
かつて義政の跡目を争った相手の子供を将軍にするという、あり得ない行動から富子の権力への執着が見てとれます。
しかし義稙が富子を排除しようとします。
そこで富子が何をしたかというと、細川政元とともにクーデターを起こすのです。
義稙を廃した富子は、11代将軍に足利義澄を就任させ、権力を握りつづけました。
日野富子の銭ゲバぶりは悪女と言われても仕方のないことかもしれませんね。
また、自分が実権を握るためには手段を選ばないところも、悪女と言われる所以でしょう。
日野富子は本当に悪女だったのか?
日野富子にも悪女らしからぬエピソードがあります。
長引く戦乱のなか、京都は荒れ果てていました。
そこで莫大な私財を投じて再興につとめたのが、日野富子だったんです。
朝廷の御所が火災に遭った際も、修復のための費用を富子が出したという話もあります。
淀殿
淀殿ってどんな人?
出典元:https://www.google.com/url?sa=i&source=images&cd=&ved=2ahUKEwid4a6fzJrjAhWlKqYKHYpnApIQjRx6BAgBEAU&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25B7%2580%25E6%25AE%25BF&psig=AOvVaw3e6r0_VgSuudyLjRDrc9uk&ust=1562306726933356
淀殿は父・浅井長政、母・織田信長の妹のお市の方の間に生まれました。
本名を茶々と言います。
母のお市の方は夫の死後、柴田勝家と再婚しますが、信長亡き後に豊臣秀吉に攻め滅ぼされ、お市の方もその後を追って自害しています。
後に淀殿はこの母を死に追いやった、豊臣秀吉に嫁ぐことになります。
そして秀吉の唯一の子である、豊臣秀頼の母でもある人物です。
最後は大阪夏の陣で子・秀頼と自害するという、悲劇の女性でした。
日本三大悪女となった理由やエピソード
生い立ちだけ見れば、そんな数奇な運命を辿ってきた女性が、なぜ日本三大悪女の一人と呼ばれるのかわかりませんよね。
ここではその理由を探っていきます。
徳川に抵抗し続けた
秀吉が亡くなった後、秀頼がまだ幼かったこともあり、淀殿が権力を握るようになります。
しかし秀吉が亡くなった2年後には関ヶ原の戦いが起こり、天下は豊臣から徳川家康に移ります。
徳川家康は江戸幕府を起こし、全国の大名たちを自分の家臣にし、豊臣家もこれに倣わせようとしました。
今まで豊臣方についていた大名たちは、世の中は家康の時代になったと悟り、これに従いましたが、淀殿は家康の要求を拒否し続けました。
徳川から面会を求められても、「無理強いするなら秀頼を殺して自害する」と突っぱねたそうです
家康は秀頼が大人しく従っていれば、豊臣を滅ぼすつもりはなかったと言われています。
しかし淀殿が全てを拒否し続けたため、ついに業を煮やして大坂の陣に踏み切ったのです。
現実を直視せずに、権力にすがりついたがために、豊臣家を滅亡に追いやったというのが悪女と言われる理由のようです。
不義の噂
秀吉には16人もの側室がいましたが、秀吉の子どもを産んだのは淀殿ただひとりでした。
しかも、秀頼が誕生したとき秀吉はすでに57歳。
淀殿には乳兄妹である大野治長との密通の噂もあったそうです。
淀殿は本当に悪女だったのか?
淀殿の悪女説を覆す史料があります。
実は淀殿は大坂冬の陣のときに、人質となって江戸へ下ることに承諾していたというものです。
また、淀殿は侍女たちからとても好かれていたという話もあります。
淀殿の死後も、彼女の命日には侍女たちが供養していました。
さらにそれは侍女の子孫にも受け継がれたというのですから、相当慕われていたんですね。
こうして見てみると、日本三大悪女とされている人たちには「政治に介入した」という共通点があるのがわかります。
三人とも強い権力を持っていましたから、恐れられたのは当然なのかもしれませんね。
他に三大悪女といわれている人物は?
北条政子、日野富子、淀殿以外にも三大悪女のひとりと言われている人物がいます。
簡単に紹介したいと思います。
藤原薬子
藤原薬子は平安時代の人物で、藤原四家のうちの「武家」出身のお嬢様です。
彼女がなぜ悪女と呼ばれるかというと、長女を嫁がせた安殿皇太子と不倫して、その寵愛を利用して政治介入したからです。
安殿皇太子が平城上皇となったとき、嵯峨天皇と対立していました。
その対立を煽り、平城上皇の復権を狙ったのが薬子と兄の仲成でした。
「薬子の変」というのはこの反乱のことをいうんですね。
春日局
春日局は大奥を作ったことで有名ですが、それほどの権力を持っていたことが悪女の印象へとつながっているようです。
春日局は老中をもひれ伏させていたと言いますから、相当恐れられていたのでしょう。
現代の日本三大悪女とは?
歴史上の悪女は国を傾けた人や、歴史に大きな影響を与えた人のことを指しているようですが、現代では違った意味を持つでしょう。
特に恋愛において、自身の魅力を利用して男性をたぶらかすような意味合いが、強いようです。
また、お金に対する執着が強い人もそう呼ばれる傾向にありそうです。
皆さんの周りにも、そういう人が一人はいるのでは?
では現代の三大悪女と誰のことを指すのでしょうか?
ここでは男性を翻弄し、お金に対する執着が見られる芸能人3人を挙げてみました。
紗栄子
ご存知の方が多いと思いますが、メジャーリーガーのタルビッシュ有選手との離婚騒動が有名ですね。
月々の養育費として1000万円を要求したと言われています。
本当のところはわかりませんが、このような法外なお金を要求したと噂されたことが悪女と呼ばれる理由のようです。
高岡由美子
鬼嫁として、夫で元Jリーガーの本田泰人さんとテレビにも出演されていました。
現在は離婚されていますが、離婚前に本田さんの会社のお金を横領したり、浪費癖がひどく、借金を重ねていたと言われています。
離婚後も本田さん名義の通帳を返さず、本田さん側の弁護士からの再三の返還要求にも応じず、やっと返還した通帳の残高は数百円だったとか・・・
かなりお金に執着する方のようですね。
重元直美
元大阪パフォーマンスドールのメンバーであり、お笑いコンビ・次長課長の河本準一さんの奥さんでもあります。
彼女が悪女と呼ばれる理由は、河本さんが母親に仕送りをしようとした際に「何でうちで稼いだお金をお義母さんに送らなあかんの⁉」と激怒したためのようです。
義母をないがしろにする上に、金離れが悪いことがそのように言われる理由でしょう。
現代の悪女についてはこちらでも紹介しています
中国三大悪女は誰?
ここからは世界の悪女について見ていきましょう。
歴史に残る悪女ってどの国にもいるものですね。
まずは中国です。
1.呂雉(?~紀元前180年)
漢王朝の初代皇帝・劉邦の妻です。
彼女が悪女と呼ばれるのは劉邦が亡くなった後、夫の寵愛を受けていた威夫人に対する仕打ちがあまりに残虐だったからです。
呂雉はまず戚夫人を投獄してボロ衣を与え、手枷をつけて奴隷にしました。
さらに地方に赴任していた戚夫人の息子の如意を呼び出し、毒殺します。
そして戚夫人の手足を切り落とし、両目をえぐり、薬で耳と喉をつぶすと、便所へと放り込み「人豚」と称して見世物にしたそうです。
西太后(1835~1908)
清王朝の第9代皇帝・咸豊帝の妃であり、10代皇帝・治帝の母です。
西太后は夫の死後、清朝の権力を握り次々にライバルを葬っていったとされています。
中でも有名なのが、第11代皇帝・光諸帝の側室であった珍妃のエピソードです。
西太后は1900年に起こった「義和団の乱」で、珍妃を生きたまま井戸に投げ落として殺したといいます。
これは珍妃が光諸帝の寵愛を受けていたことに加え、諸外国の軍勢に迫られて北京から脱出することを批判したためと言われています。
気性の激しかった西太后の逆鱗に触れたのでしょう。
武則天(623~705)
武則天は中国史上で唯一、女性で皇帝になった人です。
日本では則天武后の名前の方が知られています。
武則天は第3代皇帝・高宗に寵愛を受け、娘を生みます。
しかし皇后の座を狙っていた武則天は、なんと自分の娘を自ら絞め殺してしまいます。
それを子供のいなかった王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落としました。
さらに皇后となった武則天は、王前皇后とライバルであった蕭淑妃を百叩きにした上に、
四肢を切断し、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込みました。
二人は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後絶命したと言われています。
韓国三大悪女は誰?
次に韓国の悪女をご紹介します。
1.張禧嬪=チャン・ヒビン
韓国王朝の王・粛宗の側室です。
彼女は権力に対して貪欲な人でした。
張は王妃・仁顕王后に子どもができないことを理由に粛宗と離縁させ、代わって自分がその地位につきます。
ところが王妃になって6年後、王は仁顕王后と復縁し、張氏を格下げしました。
復讐の鬼と化した張禧嬪は、王妃を呪い殺したうえ、寵愛をうける淑嬪・崔氏の妊娠を知り、リンチのうえ毒殺を企てます。
しかしこの悪行が白日の下にさらされ、42歳で処刑されました。
2.張緑水=チャン・ノクス
10代王・燕山君の側室です。
彼女が悪女とされる理由は、その浪費癖にありました。
張緑水は王とともに贅沢三昧な生活を送り、王朝の国庫をカラにしたといいます。
庶民の起こしたクーデターにより最後は処刑され、民衆は彼女の遺体に石を投げつけたそうです。
3.鄭蘭貞=チョン・ナンジョン
11代王・中宗の妃である文定王后の弟・尹元衡の側室です。
彼女は文定王后と共に政権を握り、その状態を女人天下といいます。
鄭氏は姦計にたけ、政敵や目障りな存在を次々に呪詛、放火、冤罪、毒殺などの手段で葬っていきました。
しかし文定王后が亡くなるとその地位は失墜し、尹元衡の正室を毒殺したとして王宮を追放されました。
最後は失意の中で服毒自殺を果たします。
まとめ
日本三大悪女をはじめ、様々な悪女をご紹介してきました。
世界の悪女の残虐さにはぞっとしますね。
悪女は嫉妬深い人が多いようです。
日本の悪女も世界の悪女も、女性ながらも歴史を動かし、時には国を傾けてしまう人もいました。
恐ろしい人たちですが、ここまでくると逆に清々しくて魅力を感じる部分もありませんか?
現代の悪女の基準は人それぞれでしょう。
皆さんの身近にいる悪女はどんな人ですか?
いずれにせよ、悪女に捕まると大変なことになるかもしれません?
悪女にはご注意を!